こんにちは。片山です。1997年から2003年まで京大の総長をつとめ、情報学研究科の創立にも深くかかわった長尾真先生の自伝「情報を読む力、学問する心(2010, ミネルヴァ書房)」を読みました。
https://www.minervashobo.co.jp/book/b67805.html
黎明期の言語処理研究についての話や、総長としてのご苦労、その後の国会図書館長としてのお仕事や振り返りもたいへん興味深いのですが、特に情報学研究科の創立についての裏話がおもしろかったので、少し長いですが166ページから引用します
私は将来を考えると、つく私は将来を考えると、作るべき大学院は次のようなものであるべきだと考えていた。
すなわち、(1)情報は人間が作り出し、人間が利用するものである、したがって人間の頭脳が情報を作り出すメカニズム、さらに情報が人間にどのように理解されるかということを深く究明すること、(2)外界からの情報は文字や音、図、動画、その他五感に関係した媒体によって受容され、表現、伝達され、認識理解されるから、これらの研究と共にこれら情報媒体間の変換などを究明すること、(3)情報の生成、伝達、受容にはコンピュータのソフト、ハード、情報通信技術などが必要であるから、これらを研究すること、(3)情報はこれからの社会活動の中で大きな位置を占めるようになるし、社会に大きな影響を与えることになるから、情報社会学といった視点も欠かすことができないこと、(5)そしてこれらすべての基礎に、これら巨大で複雑な対象を数理的、システム的、シミュレーション的に明確化してゆく研究などが必要である、といった範囲を考えた。
そこでこれらに関係する大学内の部門として、工学部では情報工学科、数理工学科、電子工学科の通信関係講座、理学部では数学の中の数理工学に近い部門、文学部の心理学、教育学部の認知科学、さらに医学部の関係部門といったところの関心のある方々に集まってもらって議論をした。
作るべき研究科の名称は、他大学などで言われている情報科学、情報工学といったものでなく、ここに述べたような構想から、それは情報の学でなければならないと考えた。当時は人文社会学分野では自然科学に対する引け目があったのか、「科学」と名をつけるのが流行っていて、人間科学、言語科学、教育科学などという名称がよく使われていたが、私は自然科学で人間のすべてを解明できるとは思っていなかったので、科学を超えた学問世界というものの存在を考えて、情報の科学でなく、情報の学をやるのだと主張し、情報学研究科という名称を提案し、それが受け入れられほっとした。
(中略)
同じ研究科の中でいろんな問題に対する十分な議論と意思疎通が不足し、それぞれの間の壁が依然として高いということもあるかもしれない。しかし真に学問をしている人は謙虚で寛容であるはずだから、こういった壁はあるはずがないのであって、皆が透明性の高い環境で切磋琢磨するのが本来の姿であり、またそうであってこそ世界一流の研究が成し遂げられるのではないだろうか。
だからこそコンピュータサイエンスではなくそれを包含した情報学, Informatics。
現代の、情報インフラが深く社会に浸透し、生成AIが存在感を増し、ポスト・トゥルースともいわれる現代では情報との向き合い方は社会の大きな問題になっているなかで情報学研究科が社会で果たす役割は大きくなっているように思われる。
本書を読み、2009年に大学院に入学した自分も、コンピュータサイエンスから法学、土木、農学などなどいろんなバックグラウンドの人間が集まっていた専攻で学んだことで、さまざまな問題とそれへのアプローチが多様である必要を実感したのであったことを思い出した。
長尾先生、ありがとうございました。